ご利用ガイド
ツアーのご予約に関して
大原は京都市内からバスで1時間はどの、都心の確願を離れた、静かな山里と呼ぶにふさわしい場所だ。春のヤマザクラや校垂れ桜にまりクナゲ、ヤマツツジ、アジサイ···と、花の季節はもちろん、木陰で涼しい風を味わう夏、秋の稲穂や紅集、冬にはサザンカやツバキに舞い落ちる雪を見ながら甘酒であたたまるなど、それぞれの季節を楽しむことができる。
豊かな自然に囲まれた中で、極楽浄土の世界や、趣のある庭園に心を癒やされるひとときを過ごすのは、貴重な体験であろう。三千院と寂光院を結ぶ参道には、茶店や土産物屋が軒を連ねており、京土産を探し歩くのも一興である。
三千院
きょうと~大原三千院♪」と歌にもなった三千院は、大原を代表する天台宗の寺院だ。最澄が比叡山に延暦寺を建てた時に結んだ草庵が始まりとされ、天台三門跡寺院(他は青蓮院、妙法院)の中でも最も歴史が古い。
伽藍ができた平安後期以降には、皇族や公家が住職をつとめる門跡寺院となる。梶井門跡と呼ばれ、何度か移転を経たのち、1871年(明治初頭)に京都市中心部から同寺院の出先機関があった現在地・大原に移った。このとき周辺の極楽院なども境内に取り入れて整備し、新たに名称を「三千院(三千院門跡)」とした。城のような石垣や、白い土塀、門構えなどに、門跡寺院の風格が感じられる。
境内北西側にある客殿からは、「聚碧園」と呼ばれる池泉回遊式庭園が眺められる。江戸時代の茶人·笠報宗和による修築と伝えられている。
客殿の隣にある「宸殿」は、御所の紫宸殿を模して1926年に建てられたもの。本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来で、秘仏である。
宸殿前には「有清園(瑠璃光庭)」が広がる。こちらも池泉回遊式庭園で、「往生極楽院」(元「極楽院」重文)があり、作家の井上靖が「東洋の宝石箱」と賞賛した。
往生極楽院に安置されているのは、平安時代から伝わる阿弥陀三尊坐像(阿弥陀如来像·脇侍の観音菩薩坐像·勢至菩薩坐像=すべて国宝)で、両脇侍も座像なのは珍しい。像の大きさに対し、堂が小ぶりなため、天井は舟底型に折り上げられているのが特徴である。時期によっては、お坊さんが説法しながら解説してくれることもある。杉苔で覆われた庭には「わらべ地蔵」と名付けられたかわいい地蔵を見かけられ、ほのぼのした気持ちになる。
往生極楽院の東側には、弁財天のお堂がある。数千株の紫陽花が植えられた紫陽花園の先には、金色不動堂、観音堂、鎌倉時代の阿弥陀石仏もあり、深山の散策を楽しめる。
三千院の北側には「律川」、南側には「宮川」と呼ばれる川が流れているが、これは声明書律の「営律」にちなんで名づけられたといわれている。
声明(しょうみょう)とは
声明は、寺院で行われる法要儀式の際に、経文や真言に抑揚を付けて唱える仏教の宗教音楽で、日本の音楽の源流だと言われる。特に天台声明は、他宗の声明よりも典楽く、歴史の中で洗線された数多くあり、大原は「天台声明の聖地」中国·山東省という山が中国の古代声明の伝説的な中心地であることが天台宗では大原が「日本における魚山」と称され、「魚山」は大原の代名詞のように使われることもある。
来迎院
前出の呂川に沿って、三千院の南側を300m東に少し上って行くと、来迎院がある。
大原は、9世紀半ばに最澄の直弟子·3代天台座主、慈覚大師円仁が「声明」の修練道場として寺を開山した。藤原時代(8世紀末~平安末)には、俗化した比叡山を離れて念仏に専心する僧たちが、次々とこの地に僧坊を営んだことから、隠棲の修行地となった。
来迎院は1109年、声明中興の祖である良忍により、「天台声明の根本通場」として円仁開山の寺が再興されたもの。円仁が伝えた声明を「山声明」として集大成し、これが後に「天台声明」の主流となって今日に伝承されている。
たび火災に遭い、現在の建物は天文年間(1532~155)に再建されたもの。本堂には、藤原時代の「木造漆箔寄木造」の薬師如来像、釈迦如来像、阿弥陀如来像(すべて重文)が安置されており、いずれも劣らぬ円溝な顔と優雅な姿は一見に値する。境内には、鎌倉時代の石仏や室那時代の梵鐘が残っている。観光客は少なく、静かな行まいが好ましい。

さまざまな影響

日本の仏教の中には、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗という「坐禅をする宗派」がある。一般的に「禅宗」と呼ばれることが多いが、「禅宗」という宗派があるわけではない。どの宗派も座禅を重視し、座禅により悟りへの道を進むという共通点がある。
「禅」の始祖は「菩提達磨」という5~6世紀のインドの仏僧で、中国に渡ってディヤーナ(漢字では「禅那」=瞑想という意味)を体系化して広めた。禅とは、座禅による瞑想で得られる、心の特定の状態を求める修行のことである。

明庵栄西が鎌倉時代に日本に伝えたと言われる。栄西は初め天台密教を学んでいたが、1187年、宋に渡った折に禅と出会い、1191年に帰国後、九州の筑前誓願寺で禅の布教活動を始めた。1199年に鎌倉に入った後、将軍頼家の帰依を受けて寿福寺を創立。1202年に京都に建仁寺を造立してからは、京都と鎌倉の間を往復して禅を広めた。
京都府には、建仁寺派、南禅寺派、東福寺派、天龍寺派、相国寺派、大徳寺派、妙心寺派の7つの宗派の本山が集まっている。
このほか山梨県や静岡県などにも臨済宗の本山が点在している。
臨済宗は江戸時代中期には、曹洞宗や黄檗宗と比べて衰退したものの、白隠慧鶴(1686~1769)により復興された。白隠慧鶴は「悟りの後の修行(悟後の修行)」の重要性を説き、公案などの瞑想·修行法を段階的に体系化した。
「公案」とは、中国の宋時代に始まったもので、瞑想修行の際に師から出される課題のことだ。また自分の経験から、禅修行のやり過ぎで起こる「禅病」(一説には発汗や動悸、足の冷えなどの自立神経症状や食欲不振などをともなったうつ状態を指すとの指摘がある)を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を助けた。
臨済宗では、本尊として阿弥陀如来、薬師如来、観世音菩薩などが祀られているが、本来は、座禅の修行を行うことが悟りに直結するという考えから「本尊は一定しない」というのが大きな特徴だ。
経典についても、南無釈迦牟尼仏を唱えることが多いが、特定の決まりはない。畑を耕し、作物を育てるなどの労働(作務)も重要な修行という概念もある。「祖師の悟り体験」が重要視されるようになっていったことから、座禅で「公案を思索する」のも特徴だ。悟りの境地の表現のしかたには色々あるとされ、特に日本では、詩、絵画、建築など様々な分野で「悟り」が表現されている。



着倒れの拠点

西陣地区の中央東寄りにある「西陣織会館」は、西陣織工業組合により運営されている入場無料の施設で、華やかな和装の美しさを紹介する「きものショー」が毎日開催されている。
また、西陣織の紹介や史料が常時展示されている。
機織りや染色といった伝統の業を紹介する制作実演も見学でき、西陣織をはじめとする小物やお土産品も販売されている。
短時間での制作体験をはじめ、着物体験、十二単や舞妓·芸妓などの衣装体験も楽しめるようになっている。

故事ことわざ「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」
「着倒れ」は、着るもの、特に高価な絹の着物にお金をかけすぎて財産をなくすこと、「食い倒れ」は、飲食にお金をかけすぎて財産をなくすことを表す故事である。
着物で贅沢する京の気風と、食べることが大好きな大阪人の気質を対比させていった言葉で、これに「ケミカルシューズ」の産地である神戸の「履き倒れ」を加えて例えることもある。大阪の「食い倒れ」は、もとは「杭倒れ」とも表現された。
川と橋が多い大阪の街で、大阪人がたらふく美味しいものを食べたために、橋の杭が倒れて橋が落ちた、というもので、その「杭」から「食い」に変遷したと伝わる。